我が人生に悔いありき!!
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    人は時に思う!
                  もしもあの時・・・であったなら、今の私は・・・であったかもしれないと。
                  過ぎ去りし人生のひとこまが胸を走るときがある。
                  一人酒を飲んだ時や、夜の孤独の時間にさらされた時に、ぽぁっとよぎるときがある。
                  もしもあの時・・・は実人生では許されない。
                  でも、WEBでは許されるのだ。それがWEBの世界なのだ。!
                  人に言えなかった秘密や、若さゆえに無謀な過ちも年齢とともに受け入れ許し、
                  世界に心を開いてみようと思うときがある。
                              我が人生に悔いありき!!
                  さぁ、あなたの ”もしもあの時・・・は?” ぞわぞわしたへまぐり失敗談、秘密の扉を少し開けて
                  WEBの世界で告白をしてみて下さい。
                  今幸福な人は、WEBの世界で遺言、絶筆、絶言、懺悔録を
                  告白してWEBの世界で未来の末期の時を想像してみてください。
                  さー!なんでもありーです。
                  夢の中で復讐の誓いを立てることだって自由なのだ。
                  メールで投書してください。1行でもよし、400文字だってよし。
                  掲載時に加筆整理することもありますのでご承知おき下さい。
                  もちろん匿名可ですよ。
                       
                       メールアドレス toshi@takashima.net


 



★ 初冬の出会い、夏の別れ

裕子と初めて出会った場所は早池峰山でした。
12月初旬、私は友人と二人でその年の最後の登山ということで早池峰に登った。
小田超ルートから、歩き始めたが、その途中で一人の女性の方が歩いていた。
白いセーターに、紺のタウンジャケット。眼が二重でまあるくいかにも優しい感じがした。
頂上まで行くというので一緒に登ることにしました。その彼女が裕子でした。
初冬の山道を女一人で歩いているなんて、その時の私にはとてもロマンチックに見えました。
頂上には雪が積もっていて冷たい風が吹いていたけど、純白の雪の美しさと彼女への恋心とが
入り混じっていて、心の中はある暖かさで燃えていたのでした。
裕子は東北地方のある大学病院の看護婦をしてました。

もう数年前の想い出なんですが、でも美しい想い出はいつまでも忘れることができないものですね。
年明けて、彼女の病院のある街の雪祭りに遊びに行ってきました。
お祭りの夜、冷たい雪景色の中で始めて唇を重ねました。
その後電話でどんなに長くお話ししたんだろう。
でも、電話でお話しした時間の累積と愛の結論は一致しないんですね。
裕子は母親一人に育てられてきたのだった。母一人子一人の環境でした。
母親は体も弱く、遠くの街まで行かないと言っているという。自分が面倒を見なければならないと裕子は言った。
私の住んでいる街まで3時間。その3時間の隔たりが裕子との愛を結晶させることができなかった。
その年の夏、裕子は私の街まで遊びにきたのでした。
裕子の街は海から遠いので、海を見ることもなかなか無いと言うのでした。
車もないし、余暇はほとんど山ばかりと裕子は言うのだった。
夏の海を見ながら裕子は言った。
海を見ていると悩みも悲しさもみんな海の青さに溶けこんでしまいそうだね。
病院で死んでいく人たちや、家族の悲しみも青い海の広さに吸いこまれて心の荷物が軽くなるようだわ。

暮れていこうとする夏の海のほとりを歩いていると時々肩が触れ合った。
そしてその日が裕子とデートした最後の夏の日だった。

翌年の春の手紙にこう書かれていた。
朝出勤途上の境内を横切ると、老人夫婦が手を取り合ってかばいあうように歩いておりました。
私も年を召されたらあんな風に生きてみたいなと。
                                   【忘れられない愛をいつまでも想う20代の男性】



不倫の愛・・・情熱的な彼に心ひかれる

 女って幸せな恋をしてる時は皆に自慢したくなるとおもいます。
同じ恋なのに不倫の恋ってガードを固く守って秘密のベールの中に閉じ込めておかなければならない。
それだけに愛のボルテージが高くなるのかもしれませんね。

 私の夫は技術系のお仕事をしております。すごーく真面目で寡黙で善良な人なんです。
子供がおりません。優しくて、まわりから見たら夫婦円満の典型的な家庭にみえるでしょう。
でも人間って不思議な生き物なんですね。ナニカ足りない、ナニカが不足しているように思うのです。
それは、なんなのでしょうか?
私は30代前半です。夫は私より3才年上です。
夫には本当に悪いんですが、心が本能的に夫から離れていくような気がしています。

 今、私は出版関係のお仕事をなされていらっしやる男性と恋愛をしております。
週に一度お会いしております。酸素不足で時々水面上に口を出して、酸素を取り入れる金魚ような想いなのです。
彼の強烈な個性と、ナニカ高い目標に向かう姿勢が全身から溢れているのです。
失敗さえ恐れない理想への情熱が、ひたひたと伝わってきます。
彼はまだ独身なのですが、お話しすることが喜びで、彼とは一度もKISSもしてません。

この社会にはコスモポリタンの理想があるように、男と女の関係にもその理想が通用してくれればよいとおもいます。
それは女の身勝手さでしょうか?
このホームページで不倫の恋が掲載されておりましたが、あの女性の気持ちはよくわかります。
”不倫の愛でも私には本当の愛なんです”と述べられておられ、彼への熱い想いが伝わってくるような気がします。
でも秘密です。誰にも言えないです。それだけに愛のボルテージがいやおうなく高まってくるのです。
どうすればよいのでしょう。
                                   【優しく真面目な夫から心が離れる30代の妻】


不倫の恋

 不倫の恋を一度も考えたことがない女はそれはそれで美しい人生をお過ごしなのかもしれません。
でも、私みたいに不倫の恋に足をふみいれた女は人の道を踏み外した悪女なのでしょうか?
世間的にはそうなのかもしれません。
でも、私は彼が好きです。彼の内面の美しい気持は私でなければ理解できないとおもいます。

彼とは英会話の教室で知り合い1年半になります。
彼は40台前半、奥さんと1人の子供がいます。私は30台前半で未婚なのです。
始めは彼に家族がいないとおもっていたんですけど。
これから結婚できるかどうかわかりません。
別れたくありません。不倫の恋は女性を大きく成長させるといいますけど、でも私は子供でいいの。
飲んでタクシーで送られてアパート前で降りるとき、彼も一緒に降りて、このまま朝までそばで寝て
欲しいなあとおもいます。

これからは寒い季節です。
仕事を終えて、寒く暗い部屋に帰るといつも思うの。
彼には奥さんがいて暖かい部屋で待っているのねと。
不倫の愛でも私には本当の愛なんです。
サヨナラは私からは言えない。
                                     【不倫の愛にかける女】

★ ファースト ラブ

 失われた過去の想い出、とくに恋の想い出はせつなさと美しさが折り重なって、
私の胸に住みつづけている。

高校2年の夏、湖畔のレストランでアルバイトしたことがあります。
私の姉がそこに嫁いでいたからでした。
店内でお土産品のお客さまの相手をしたり、ウエートレスだったり、忙しい時には、
ボート番もしました。そこには東京の大学生Kさんもアルバイトしておりました。
彼は20才でした。バイクで日本縦断旅行しているとのことでした。
お金が無くなれば、観光地でアルバイト口を探してお金を稼ぐのだそうです。
長身で日に焼けていて、とても逞しくみえました。
仕事が終ってから、夕陽の美しい湖に二人でボートを浮かべたことも何回かあります。
夏の夕暮れの湖はおだやかで本当に夢の世界に引きずってしまいそうだったです。
私は女子高校だったので、男性の方と知り合う機会がなく、私にとっては初めての男性でした。
私の夏休みが最後の土曜日、Kさんから誘いをうけました。
仕事が終り、観光客も落ち着いた頃でした。最後に乙女の像を見ようということでした。
手をつないで砂浜の渚沿いを歩きました。初めて男性の方と手をつなぎました。
乙女の像付近でしばらくお話をしました。そして、人影が無くなった頃、Kさんが私の唇にキスを
しました。
今でもその時の唇や手の感触を昨日のように思い出します。
夏の季節になるとあの日のことが昨日のことのようによみがえってきます。
                                      【20才 女子】

★ 山谷物語 2

 いかすみの高嶋さんにメールをだしました。
先週の”我が人生に悔いありき!”をお休みになりましたね。と
高嶋さんが私の山谷のことの続きを待っていたとのこと。
待たれるとメールしないわけにはいきません。

 私ががよくいく喫茶店があった。BACH(バッハ)という店だった。
ドヤ街の外れにあり外観は琥珀色なシックなつくりだった。
中は明るい照明で純喫茶風だった。
名前にたがわずにバッハの曲がいつも流れていた。
客の入りがそんなに多くはなかった。
いつ行っても文学青年風の若者がいて、世界文学全集なんかを読んでいた。
その当時は、あの雑多な街にクラシック喫茶店があったのは妙な感じがしたが、
今思うとむしろ、とても似つかわしいと思えてならない。

 私はこれから、とにかく生活して生きていかねばならないと思い、
木賃宿で聞いた仕事の見つけ方を実践した。
手配師の集まる指定した場所に朝早く行ってみた。
簡単な説明を受けて、それぞれの親方の指示された車に乗せられて、飯場に向かった。
仕事を貰いに行っても与えてもらえず、力無く肩を落としてスゴスゴと帰る人もいた。
そんな人は年を取っている人や、やせこけて力仕事に耐えられない人、無気力な人だ。
無気力と言えば変ですが、このドヤ街に住む人はほとんどが無気力なのだ。
ここに住むことを求めてきた人々は、それぞれわけありで来ているのだ。
そういう人に元気を出せというのが酷なのかもしれない。
それでも、高度経済成長の時は少々稼ぎが劣る人でも、結構仕事にありつくことができた。

日銭の5千円を貰い宿代と飲みに使ってしまうという毎日だった。
ここに住んで1週間ぐらいの時、私は警察に捕まった。
道端で衣服とか、日用品を並べて、売っている男がいた。それを何人かで立って見ていた。
奥さんの形見だったという時計、指輪、衣類とかを講釈をつけ泣きながら売っているのだ。
面白い男だなとおもってしばらく見ていると、労務者風の男が私の腕を突ついた。
振り向くとこっちに来いと手招きするのだ。
私は腕を払おうとしたら、ぎっちり掴んで放さないのだ。
逃げようとしたら、もう一人労務者風の男が
反対の腕を掴んだのだ。そして、胸から警察手帳をチラリと見せて、暑まで来いというのだ。
私はてっきり労務者たちのシゴキを受けるのかなとおもった。
たどりついた所は交番だった。ここでは、警察官も制服を着ていないということが初めてわかった。
2時間ぐらい職務質問された。何をするにここに来たのかということをしつこく聞かれた。
ここは犯罪者の隠れ場にもなっている。それに、社会に上手く適応できない人も多い。
人との関係を持てない人がドロップアウトしている。宿はどうしてるとか色々うるさいほど
職務質問されてようやく開放された。

 このドヤ街に住み慣れると意外と楽だなと思った。
普通の人生の道を降りて、同じような人間が生きていて、他人の眼を気にかけなくて
よいということだ。
ここには、競争心も湧いて来ないし、生きてることも、その日暮らしなのだ。
美しい女への欲望もなく、ただその日暮らしなのだ。
未来よりも、過去の亡霊と共に生きているようなものだ。
わけありで家族と縁を切ってここに名前無しで生きているのです。
人間の絆が断ち切られているのです。
この街に一番必要なことなことは人間関係の絆だとおもうのです。
幸い私には母親という家族があり、その絆が私が再び普通のサラリーマンに
戻ることが出来た理由でしょう。
聞くところによると、最近は不景気で仕事が少ないというこだそうです。
でも以前の木賃宿の多くはビジネスホテルに模様変えして、個室で、TV,風呂付きになったという。

                              【全共闘世代  社会を一時ドロップアウトした男】

★ 山谷物語

 山谷。さんやと読む。わざわざ、ふりかなをつけないと今の若い者は知らなかも知れない。
今は千束○○丁目に町名変更になったからだ。山谷と聞けば日本の片田舎に住んでいても知らない者が
いないはずだ。それくらい有名な地域だっだ。だったというのは今はマスコミで話題になることも少ないからだ。
全共闘世代には山谷、大阪の釜ヶ崎と聞くと熱い連帯の眼差しが注がれた時代だった。
その街は社会をドロップアウトした人間が沢山集まる所だ。
山谷騒動があって、交番や、車に火をつけたり、ボランティアによる炊き出しも行われた。
 
 私がそこに半年程生活をしたことがある。ボランティアとして参加したのでなく、丸っきりの流浪人としてだ。
私は関東生まれだが、今は、青森県の某市に住んでいる。一家を構えている。
たまたまあるプロバイダの個人のHP欄を見ていて、面白い企画をしてる人がいると思ってメールを出したんです。

 高校を出て会社勤めを7年しました。同じ会社の同僚の女子社員と激しい恋愛をして、結局恋に破れて希望を
失い会社を止めました。
それから東京に出て、放浪生活が始まったのです。
何故、山谷だったのか?と今でも不思議でならない。雑誌や、新聞で話題になってて、ドロップアウトした人間が
行くものだと思っていたからだろう。

宿はどうしたか?最初のうちは個室のある部屋の木賃宿で松、竹、梅のランクのうち梅に泊まっていたが。
そのうちに共同の雑魚部屋に泊まったり、夏は鋪道や公園に寝泊まりしたこともある。
退職金があったので、気分的には楽だったが。
警察に捕まったこともある。今でも覚えている。”何しにここに来たんだアー・・”両側の腕をしっかりと抑えられて
警察署まで連行されて、色々と問いただされた。

 しゃべりたい事がいっぱいあって、一度にに書ききれない。
でも、一言だけ言わせてもらえば、社会をドロップアウトした人間が集まる所は、確かに住みやすい。
他人の眼を全然気にかけなくて良いというこです。
そこには、競争する力も気力も湧いてこない。向上心もなくなるということです。
それだけは言いたい。
又次の機会にメールをだします。
このホームページは面白いのをやってるね。
ずーと続けたほうがいいと思うな。
                                   【全共闘世代  社会を一時ドロップアウトした男】

★ 下着ドロボー
 
 高校2年の時でした。
家族5人が夕ご飯のテーブルを囲んでいた。いくぶん遅れて私はテーブルについた。
その時の皆で話題にしてるのは、最近、物が盗まれてるから、気をつけようということだった。
お母さんが姉にちやんと隠して干さないとだめよ!とたしなめていた。
というのは、姉の下着が何枚か盗まれてしまったというのです。
それも、とても気に入っているのが無くなっているとのこと。
近くに変質者がいるんじゃない?と母が言った。

一番下の妹が”あー、こわいこわい”と床に届かない足をブラブラさせた。
母が私に言った。ひろちゃんも、気を付けないとだめよ!きちんと戸締りしてね。
うん、大丈夫!大丈夫!男だから。と言った拍子にご飯茶碗を床に落としてしまった。
ナニあわててるの!と母が私の顔を見た。
顔が熱っぽいんじゃない?と母が私の顔を覗きこんだ。
私は、その時、地球がグラグラと動き出したとおもった。
というのは、犯人は私だったからです。
今でも、あの時のことを想いだし、胸の動悸を思い出します。
今思うと恥ずかしいことをしたなということで、いっぱいです。
 そして、後悔しております。

 それから、30年経ち私も年頃の息子を持つようになりました。
その頃の自分と重ねあわせてみております。この頃の年頃は異性への興味が
ものすごーくあって、焼け付くような性への欲望と重なり、危険な時期だったなと
思います。とにかくも、子供たちが事件をおこすことなく、その時期を通り過ごして欲しい
と思っているこの頃です。
                                       【恥じいる男より】

★ 私、18才のとき、死のうとおもった

 ASAHIネットの会員ホームページに地域情報欄があります。
十和田湖の紅葉情報を見ようと思い東北の新着情報をみてたら”いかのすみ”のタイトルがあり、
そのタイトルにひかれて、ちょっとだけのぞいてみようとおもい立ち寄ってみました。
”我が人生に悔いありき”で57才の美術教師の少年時代の想い出が寄せられておりました。
とても、感動いたしました。

 私も絵を描くことが好きでした。少女時代はお友達や、歌手や俳優さんの似顔絵を描いたりして
プレゼントしてあげました。中学や高校時代は美術部に入り、将来美術教師になることが夢でした。
日曜日になると部活の仲間とスケッチで外に出歩くことが多かったように思います。
北海道の四季を求めて自転車で遠方まで足をのばすことがよくありました。
その頃はとても楽しかったことがいっぱいあったように思われます。
高校3年、大学入試に没頭しました。北大を受けて、できるならば中学や高校の美術の教師に
なりたいなあと思っておりました。

 しかし、夢は挫折しました。
大学入試に失敗したのです。初めての大きな挫折でした。
泣いて、泣いてそれでも涙が枯れることがありませんでした。
その時、私は死のうかなと思いました。
今想えば、青春時代の多感な感情が心いっぱいに広がっていてそんな感情にさせたのでしょう。
3月の末、死ぬ前にもう一度海を見たいとおもいました。
バスで一時間ぐらい走るS町の海岸に行きました。

 誰も人気もなく、淋しい砂浜でした。高校1年の時、仲間と一緒にスケッチにきた場所なのです。
3月末ですが、北海道の春は遅く、まだまだ、冷たい風が吹いていて、
松林を通り抜けて、砂浜を歩きました。風紋と貝殻が散りばめておりました。
渚沿いに歩いていくと、色々な漂流物が波打ち際に散乱しておりました。
 なんだろう、あれは?ふと目をすえると骨なのです。動物かな?でも大きいし、人間かな?
おじいちゃんの骨を火葬場で骨壷に入れた記憶がよみがえってきたのです。
船で遭難した人なんだろうか。それとも、あの岩場の絶壁から飛び降り自殺をした方なんだろうか。

私はその人間の骨らしきものを見ていると、とても切ない感情に包まれました。
冷たい風が吹いているのも忘れて、私は泣きながらその渚を歩き続けておりました。

それから、12年もたちます。
今は夫と子供一人の家庭です。高校を卒業して、ごく普通の事務員になって、
絵を描くことも止めてしまいました。

でも今想うことは、子供と一緒にまた再び絵を描こうかなあと思っているこの頃です。
十和田湖は10月末頃に行く予定です。
                                        【北海道 30才 女性】

★ 24色のクレヨン

 もうとっくに、昔の出来事。それなのに忘れることが出来ないこと。そんなことがあるんですね。・・
私が小学六年の時のことでした。

絵を描くことがとても好きな少年でした。海辺の近くだったので、とくに船を描くのが好きでした。
クラスの中でも私以上にリアリティーのある絵を描ける仲間は誰もいなかったとおもいます。
その頃の私には抽象画という言葉も知らない田舎の子供だったので、絵がうまいというのは
精密に写真のような絵を描くことだと思っていたのです。
いまおもえば、歴史に残る美術は、作者の自由な創造力で現実との境界があやふやな、デフォルメ
された世界のような気がします。

 その頃の私の家は貧しく、両親が朝早くから、遅くまで働いても生活は楽ではなかった。
それは私だけの家ではなく、当時の社会全体がみな貧しかったような気がします。
ま、とにかくも絵を描いて先生にほめられることが私の唯一の希望だったような気がします。
絵をきれいに現実の色合いをだすために大変苦労したことを覚えております。
私のもっている12色のクレヨンでは、十分に表現をすることができなかったのです。
学校の近くの唯一のお店屋さんでは24色のクレヨンを売っていて、喉から手が出るほど欲しい。
でも、両親にねだっても無理な話しなのです。
あの24色のクレヨンが夢まで出てくるようになりました。
クラスで24色のクレヨンを持っているのは、8人だけです。
どうしてもあの色合いをだすために、時々友達から、借りて表現してきました。

 或る日の放課後、掃除当番が終り、帰る準備をしていて気付くとふと私一人になっておりました。
カバンを持って教室の外に出ようとしたときに出口の机の中にクレヨンがのぞいているのです。
24色のクレヨンなのです。S君のです。彼は絵がまったく下手だし、勉強もあまり出来なかったし、
でも家は裕福だった。大きな船を所有していて、好きなものはたいてい買ってもらっていた。
とその時、とっさに私の手が24色のクレヨンにのびていたのです。
自分のカバンの中に入れて、あわてて、外に飛び出したのです。

 家に帰ってまだ未完成の絵を、その24色でなければ出せない部分を丁寧に塗り始めたのです。
それから、1時間ぐらいして完成しました。描き終わるとほっとしました。
ああ!24色のクレヨンだとこんなに美しく描けるのだ。とうれしさのあまり誰かに見せてあげたくなりました。
とその時、妹が外から戻ってきたのです。私はあわてて24色のクレヨンを隠しました。
”お兄ちゃん、この絵きれいだね!”と妹がほめてくれました。
そのときの私はうれしさよりも胸がどきどきしたことを覚えております。

その日の夕方、私は一人で海辺の近くの岩場に行きました。
24色のクレヨンとさっき描いた絵を新聞紙に包んで・・
そして、岩場から、24色のクレヨンと絵を細かく破いて、海へ放りなげたのです。
夕暮れの海の中にクレヨンは沈んでいきました。
帰りの道、私は一人泣きながら家路につきました。

12才の秋の出来事でした。
今私は或中学校の美術の先生をしております。
あと2年余で定年をむかえます。子供たちと接触する時間が残り少なくなってきています。
今までの私は子供たちと素直に心を開いて話しあおうという姿勢で子供たちと向き合って
きました。
その原点が12才の頃の記憶がそうさせているような気がしているように思います。
                                         【57才 男 美術の教師】

★ ペニス(PENIS)の商人・・

 私が24才の春。2年留年した大学を終えて、実家の建設業の後を継ぐ為に田舎にもどってきた。
1年前に脳梗塞で父が死んでから母が一人で切り盛りしてました。
従業員13名の小さな会社で孫受けの仕事を主にしておりました。
私にとって初めての就職でした。
何事にものんびりやの私を早く1人前にする為に母が厳しく仕事のやりかたをしこむ毎日でした。
4ヶ月ぐらいたった7月の暑い日、ビールを飲みながら野球をみてた私に母が”ちょっと今度の休みに
お見合いをしない?”ときりだしてきました。
母のたってのお願いだったので、ま、会うだけは会おうとおもいました。
相手の方は地方の大学の文学部を終えた方で同じ建設業をしてる三番目の娘さんとのこと。

 その日の朝、のんびりやの私もすこし緊張しました。
少しどもる癖のある私は、彼女の前でどもらないようにと発生訓練をしました。
”初めまして・○○と申します・パラダイスの場所はわかりましたか?・・”
パラダイスは今日のお見合いのレストランの名前でした。
私のどもりは”はは初めまして・・パパパラダイス”のように最初の語尾がもつれるのです。
仲間と話してる時は何でもないんですが、緊張した時が危ないのです。
よし、あわてずにゆっくり話せばいいんだ。今日は万全だ。とおもいました。

 少し遅れて彼女が入ってきました。
予想に反してすっごーく美人だったのです。
色白で文学部を終えた雰囲気があちこちに漂っておりました。
あわてずにゆっくりと私はテーブルの下で両手を固く握りしめておりました。
二人だけになってフリートークになりました。
”趣味は、大学での専攻は・・”
彼女は英米文学を専攻したとのこと。特にシェークスピアが好きだという。
私は文学とはえん遠く、仲間達も皆スポーツ好きで、私もサッカーを少しかじってきたのだった。
文学は好きではないけど、彼女の美しさは欲しいとおもいました。
ヤバイ話しになってきたナと思ったが、少し教養のあることをみせようとおもい
”シェークスピアってPE、PE、PENIS(ペニス)の商人というのがありましたね”
ついにどもり癖がでたのです。酒を飲んで文学好きの春樹が冗談でペニスの商人、ペニスの承認と
男性の性器をよく言ってた癖がでてしまったのです。
ベニスの商人と訂正しようとあわてればあわてるほど、どもるのでした。
”あぁ、ベニスの商人ね、私、水の都ベニスに旅したいわ・・”

私が彼女をすっかり諦めていた頃、交際しても良いという話しを母から聞いた。
その彼女が今の家内です。
新婚旅行は勿論水の都ベニスでした。
夕暮れのベニスの街は美しくロマンチックで心をひかれた女性と
一緒に眺めた風景は今でも忘れません。
そして、その夜お見合いの場のペニス(PENIS)の言葉がでた失敗談を
二人で思い出し笑いベットに入ったことを覚えております。
もうずーと昔のはなしですが。・・・
一度は後悔して、人生に悔いを残すかなと思ったが、今はとても幸福です。
文学のわかる女性って、意外と心が広いんだなぁーと思っております。
                                       【47才 男性】

★ 童 貞・・

 いかすみホームページ主催をされてる高嶋さんに先日メールをいれました。
私はまじめなことを書けません。つまらんエッチじみた話でもよいかと。
高嶋さんから返事がきまして”今はグローバルな時代です。エッチだろうが、
ソッチだろうが、ご自分が経験したことや、想像したことなりを自由に書いて下さい
それが、WEBの世界なんだと”

 それでは書きます。

私が18才の時でした。高校を卒業してある会社に入社しました。
その会社は大手電機メーカーの音響の部品を加工する下請けの仕事をしていました。
女性社員が多く彼女達にどう接すればよいのかわかりかねておりました。
私は工業高校だったし、家族も母をのぞいて男性ばかしで、女とは縁遠い生活でした。
入社して半年ぐらいたった頃だろうか、通用口で5才年上の春子さんに声をかけられました。
”飲みにいかない?”彼女は私の好みではなかったし、年上だったのでナンカ理由を
みつけて、断ろうとし彼女の顔をみたらキッとして私をにらんでいるではありませんか。
どこで飲む?咄嗟にこの言葉が口からでてしまったのです。

 それから、2つぐらいハシゴをして、彼女は自分のアパートに私を連れて行ったのです。
後は想像にまかせますといいたいのですが、何を書いてもよいというのでかきます。
彼女は泊まって行きなさいというのです。
私はまだ未経験だったし、童貞を失うのだったら、春子さんみたいな女ではなく、
もっと、おしとやかで、教養のある女性がいいなあとおもっておりました。

それでタクシーを呼んでくれないかといいました。
ダメデス、今日はここに泊まっていくのです。男が泣くじゃない、とかなんとか言ってフトンを
敷きはじめたのです。今ここで、反抗すると、会社でいじめにあうとおもい静かにしておりました。
彼女は私達のグループのチーフだったからです。
私をフトンに寝なさいと命令しました。しかたなく、今日は泊まろうと決心しました。
眠るのが勝ちだとおもいました。

それが、大きな誤算だだったことは、すぐにわかりました。
彼女は私のズボンを脱がせはじめたのです。ベルトをゆるめ、足口をひっぱり脱がしてしまったのです。
そして、パンツまで脱がしてしまったのです。
あとは、本当に、ご想像におまかせします。
まあ、いつか、この続きを書くときがくるかもしれませんが、妻に何かをいわれるようなので、しばらく秘密に
します。もう少し年をとってから告白します。
我が人生に悔いありきかな!!
                                        【妻に内緒の男 36才】

★ プロバイダ請求金額8万4千なり・・
 
 これは、遠い過去の話じゃない。近未来ではなく、近過去のお話しじゃ!
私はプロバイダは4社に加入しております。OCN, hi-net nifty,asahi-netです。
蕪島のうみねこのライブ中継をした時、asahi-netを指定したのです。
画像ファイルですか、容量が大きい。それに一時間ごとに自動発信するように
設定してましたのでそれは、それは大変な容量です。

さて、7月に6月分のプロバイダ料金の請求書をみて、ビックリ仰天。
\21、401円なり。
まてよ、7月分はどうなんだ!と思いWEB上から確認したら
ななんと!!\62、869円なりき。頭をがーんと殴られたうえ、目から火花が
でてしまいました。
月の料金が二番目に安いのに入っていたので、超過料金が莫大に発生したのであります。
2ヶ月で約8万4000円なり。
使い放題に入っていればたった5千円ですむものが・・・
頭が技術的な面にのめりこんでいて、プロバイダの設定を切り替えるのを忘れてしまったのです。

これから、お昼は水を飲んで生活をしなければ・・・
ああ!!我が人生に大いに悔いありき!!
                                  間抜けな馬鹿男  高嶋利昭   

★ 私が15歳の秋だった。

 私が15歳の秋だった。
高校受験に一生懸命の時だった。
ある日曜日の昼下がり私の家にS子が訪ねてきた。
彼女とは同じクラスでポッチャリした可愛い子であった。
父親が国鉄に勤めていて、なに不自由なく育ってきた子だった。
ごめんください。の声を聞いたときあっ、S子だとすぐわかった。
お袋が出て私を呼んだ。S子が私の家にはじめて訪ねてきたのだった。
これといって白い封筒を差し出した。私はお袋も近くにいることだし、
一瞬とまどった。が受け取った。彼女が帰ったあと隠れてよんだ。
ラブレターだった。
1週間ぐらい考えたその夜に受験のことがあり、
ラブレターを細かく破いて、近くの海の砂場に埋めてしまった。
15歳の青春の想い出です。
我が人生に悔いありきだ。もしあのとき、砂浜に埋めていなければ・・・
                                男 高嶋利昭
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